純喫茶みかづき

ほっとしたい昼。眠れない夜。常時、開店中です。

めぐるめく世界

それはまるで、私だけ時の中におきざりにされたような。

 

 

以前よりうすうす感じていたことだが
私は時間を少なく見積もる傾向がある。

 

作り置きおかずの調理に、
30分で出来上がると思って1時間かかってしまったり
2時間もあれば書けると思ったブログ記事の
じいちゃんのイラストが意外と色塗りが面倒で
ちょっとマジ、じいちゃんの髪の毛
小刻みに起毛させなきゃよかったとか
ディスプレイ越しにじいちゃんを恨みつつ
気がつけば3時間半を要し、
時計を見れば日はとっくに替わっていた、
なんてことがよくある。

 

 

それはそれとして、
近頃とみに「やっぱりそうだなあ」と実感することがあるので、
そのことについて少し。

 

 

上述したように、私は時間を少なく見積もる傾向がある。
そのためなのか、
「まだいると思っていた人がいなくなる」
という現象を、頻繁に経験する。

 

 

少し前、ガラスの仮面を借りに
図書館へ通いつめていた時期のことである。

図書館はガラス張りになっており
面した道路からは中の人々の様子がよく見える。

私は車で図書館前の道路を徐行しながら
ふと、こちら向きでカウンター席に座る老紳士に目を留めた。
彼は本を片手にじっくりと思考にふけっている様子であり
その様は非常に知的に映った。
あんな空気感で時を過ごせる、素敵な大人でありたいなあ
なんて思いを抱きながら、私は駐車場へと向かった。

 

幸い駐車場は夕刻時とあってすいており、
私は『ガラスの仮面用トートバッグ』と化した図書館用のトートを小脇に
その後まもなく入館し、
ガラスの仮面を返し、
ガラスの仮面を借りていった。

 

小走りで車へ乗り込み、
帰り道、何気なく先程のカウンター席を見やると
もう老紳士はいなくなっていた。

 

びっくりした。
初めに彼を見かけてからこの間、3分あったかも知れないほどなのだ。
おまけに彼のあの様子から、
もう少しあの場所にとどまりそうな予感さえしていた。
それでも、彼はこつぜんと姿を消していた。

 

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他にも、
店の前でいかにもずっと立ち話を続けている学生グループが
私がトイレに入って出た瞬間もういなくなっているだとか、

今日も、休憩時間に車で昼食をとっていたら
斜め前に停まっていた車に
明らかにおめぇら職員じゃねえべーといった風貌の若者が二人
ゆったりと戻ってきて、
いま少々ここらでくつろぎそうな空気をかもしていながらも、
私が「ごちそうさまでした」と手をあわせて
ふと顔を上げるまでの、その一瞬で
車もまた、こつぜんと姿を消していたのである。

 

いずれのケースも、私が
「もう少しとどまっていそう」
と思っていた点において共通している。
そのバイアスがかかっていたから、
いっそう意外に思えて、驚くのかもしれない。

 

 

それでも、何の前ぶれもなく、人は、いってしまうものなのだ。

 

 

こうしたことから、学んだことがある。

 

 

世界は、絶えず動き続けているんだ。

 

 

5分でも1分でも、世界は動く。
『変わり続けている』というより、
『動き続けている』というニュアンスがしっくりくる。

 

心でさえも。

 

私はよくも悪くも、長続きするというか、
変わらないね、とよく言われる。
うれしいと思ったことは一度もないけれど、
そう大きく変わらない
ある種の一途さがあることは、自分でもよくわかっている。

 


でもそれは、私のほうだけだったりもするわけだ。

 

向こうはとっくに、その頃の気持ちを失っていて、
というよりも、そこから離れて動いていて。
私だけ、ばかみたいに、
10年前の気持ちだって、守っていたりして。

 

思考がとどまりがちなのも、そう。
私は、心も、思考も、とどまりがちだ。


ゼミの卒業研究の調べものの中で、
心の立ち直りと、思考のとどまりやすさの
相関がどうだとかこうだとか。
あった気がする。
あった気がする……

 

 

1年もあれば、世界は変わる。
5年も経てば、
たいていの人の心は、もうそこにはとどまっていないだろう。

 

なんなら、人の気持ちが変わるのには
1秒だっていらない。
私が思っている以上に、
人は皆、動き続けているのだ。

人は絶えず動き続けている。
だからそこにとどまり続けたって、
そこには誰もいなくなる。
ひとりぼっちになるだけなのに。 

 

中学の同級生に
相手も当然覚えているだろうな、
というエピソードを話したにも関わらず
「そんなことあったっけか」
と虚を突かれた顔をされたり、

私にはあの人しかいないとか言って
ワーッと泣いていたあの子が
1年後に「子ども産まれましたー」なんつって
ぜんぜん違う男の人と結婚してたりする。

 

行き交うそれぞれの人の時が、
それぞれに微細な振動を起こし、常に動き続けているのなら
だからこそ
すれ違い、交差し、また行き過ぎてゆき。

 

 

私も、変わらなきゃ。
動かなきゃ。
どっちへ向かっていいかも
何をするべきなのかも
何もかもわからなくて、立ち尽くしているけど、
そんな私でいたくない。

 

 

めーーーぐーるーーー
めーぐるー季節ゥの中ーでーーー♪
 (作詞・作曲・歌 松山千春『季節の中で』)
って福田こうへいさん、
いつだかテレビで松山千春のカバーで歌ったの、よかったよなァ…
なんて思っているうちに、
それこそ季節はめぐり、移り替わろうとしている。

 

2月28日。
――春はもう、そこまでやってきている。

みんなのひろば

昨日は、2月とは思えないほどに、暖かい一日だった。

 

冬は職員通用口から出るとき
「おまえらはな、暖かかったんだろうけどな、
 ほんとは外は、ずうっとこうだったんだぞ。えいっ」
とばかりに襲い掛かる冷気を覚悟し
身を縮こまらせて扉を開くのだが、
その日は、拍子抜けするくらいにふわりと暖かかった。
全身をやわらかな風が包みこむ。

 

ああ、春が訪れようとしている。

 

BGMは『Winter,again』を通り抜け、
『春を愛する人』へ変わろうとしている。

 

 

あの日も、そんな暖かさだった。

 

 

先日、仕事の前に
ヴィッツ亡きあと新たに迎えた車を車検に出したのだが、
出勤時刻までずいぶん時間が余ってしまった。

 

私は、まんじゅうか何かを買うことにした。
遅番のシフトは中途半端な時間帯で、
向かう前に昼食をとるには早すぎ、
かといって空きっ腹で向かうと低血糖を起こすことがある。
詳細はいつか記そうと思っているが、
現に私は二度、朝礼中に倒れるという惨事を引き起こしたことがあり
以来、遅番には必ず何か口にしてから臨むように心がけている。

 

勤務先の食品売場におもむき、
だんごや大福の並ぶエリアに立ち寄る。
みたらしだんご。草もち。豆大福。
もちもちとひしめき合う中、
『おつとめ品!70円』
の赤いシールに目が留まった。

同業者ゆえ、
おつとめ品がなかなか消化されない焦燥感はよくわかる。
白い大福もちと迷った末、
より在庫数の多かった『吹雪まん』を選ぶことにした。
長イモも入っていて、お腹にもよさそうだし。

ところで白い皮の下に
あんこがまだらに映るこのまんじゅうを
『吹雪まん』と呼ぶのを、このとき初めて知った。
確かに模様が吹雪さながらのようにも見える。
なかなか乙な名前をつけてもらったものである。

 

 

吹雪まんと共に繰り出した外の世界は、
すこんと抜けるような青空で、
冬とは思えないほどの暖かさだった。

 

私は、吹雪まんを携えて、職場のそばの広場へ向かった。

 

日頃、この広場には絶えず人が集まる。
若者たちがラジカセを持参してダンスをしていたり
親子が自転車やサッカーボールで遊んでいたりする。
スケートボード用の平均台ハーフパイプも設置されており
かれこれ20年以上、スケボー愛好者の憩いの場ともなっている。

 

平日の昼前ともあって、
広場はがらんとしていた。
離れたところに、スケートボードに興じる青年が一人だけ、いた。

 

10年前の私であったら
少しおチャラめの若者が一人いただけでも、ひるんでしまっただろう。
ましてまんじゅう持参である。
なんとなく気恥ずかしくて、
そこへは立ち寄るのをあきらめたに違いない。

 

ところが、齢、30。
できたの魔法でも話したとおり、
失うものは何もないような気の据わり方をし始めるのが、この歳なのである。
いわゆる『おばちゃん精神』を会得しつつある私は、
臆せずベンチへ近づいていった。
よっこらしょとリュックを下ろし、
吹雪まんを取り出し、
いただきます、と小さく挨拶をして
ぼーっと虚空を見つめながらまんじゅうを食べ始めた。

 

ああ、暖かいなあ。春だなあ。
こんな陽だまりの中でおまんじゅうを食べられるなんて、幸せだなあ。

 

コジコジのセリフのような感想を抱きながら
私は青年などお構いなしにゆっくりと吹雪まんを食べた。
青年もまた、私のことはお構いなしに
自由にスケートボードを走らせていた。

次第に私は、その状況に
なんとも言いようのない心地良さを感じ始めていた。

 

その場に共にいながら、
お互いに干渉するでもなく、
確かにその場所を共有しながらも、
それぞれの時間をそれぞれに過ごしている。
その距離感が、それが生み出す空気感が、
なんともいえず、心地よかった。

 

おそらく私たちは共にリラックスしており、
自由に過ごしながらも、
互いを少しも邪魔することもなく
同じ空間を共有している。

ああ、なんだか、こういうのって、いいなあ。

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見知らぬ人と、お互いに何も言葉を交わさないけれど、
そこにいていいよと許し合いながら
絶妙な距離感で、同じ空間を共有する。

 

これこそ、みんなの広場なんだ。

 

 

私は、
『新しい生活様式
『ソーシャルディスタンス』
という造語に、激しく抵抗を感じる。
まるでそれが社会的に、真に正しいものであるかのように刷り込まれる危険性を感じるからである。
意図はもちろんわかるし、
人命を守り合うために必要であることに、疑いの余地はない。

ただ、ネーミングが、いかんせん、ちょっと。

せめて
『緊急時の生活様式
『緊急時の距離感』
と呼ぶべきではないかと、近頃つくづく思う。
そもそも、新しいから正しいとは限らないことは、
以前よりささやかれていることだけれど……

 

教育評論家の尾木ママこと、尾木直樹さんも話していた。
「子どもたちは、何も言わなくたって
 進んで近づこうとする、関わろうとする」
それが、人間が本来、心から求めることなのである。

 

 

集まることを禁じられ、
近づき合うことを禁じられ、
それでも人は決して、分け合うことを禁じられたわけじゃない。

 

今この距離感でも、分かち合う方法がある。

 

 

分け合う機会を失われがちな昨今において、
私にとってあの時間は、ささやかな喜びのひとときであったのだ。
吹雪まんを食べ終えて見上げた空は、優しく澄み渡っていた。

ホワイトベリー・ラブ~後編~

前回の続きである。

 

ずっしりと重みを増した手提げ袋を持ち帰り、
えいやっと白あんを取り出す。

どうすんのよ、この量。

どうするもこうするも、
いちご大福を作り始めるほかなかった。

 

 

さて、肝心のいちごであるが
これは母が手配してくれることになっていた。
バレンタインに合わせて新鮮ないちごをゲットするのに、
私の変則勤務では難しかったからだ。

 

「わかった。いちごね」
どこかウキウキとした調子で答えた母。
食材の目利きに関しては全幅の信頼を置いていい。

さて、冷蔵庫よりも寒いという理由で
確か廊下に置いたからと話していたはずだが…

 

 

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で、でえぇ、でっか!!!!!

でかい。でかすぎる。
『大きい』ではなく
『でかい』と表現するにふさわしいイカツさと巨大さである。
小粒のみかんくらいはある。
うちの母は夫を牛だとでも思っているのだろうか。

 

私はあわてて冷蔵庫へ飛んでいった。
このいちご、くるめるくらいの生地を作れるほど、
白玉粉、あったっけ?

 

バクバクと気味の悪い胸を押さえて
キッチンスケールで計量する。

150グラム。
ギリ。ギリ、いける。
一回り大きいくらいなら、
50グラムプラスでまあ、なんとかなるでしょ…

となると、白あんの量も増やさねばなるまい。
こちらはまあ、
300グラムもあれば、じゅうぶん。

 

ほっと胸をなでおろす。
よし。いざ、参らん。

 

 

まず最初の過程、
いちごを白あんでくるむところから。

これは難なくクリア。
やはり100グラムの増量は間違っていなかった。
驚くべきジャイアント・ストロベリー。

この間、レンジで白玉粉を加熱。
見たところ、こちらも申し分ない生地になりそうである。

 

ええと、次は、と。

この生地に片栗粉をまぶして

白あんでくるんだいちごを一個一個、包・・・

 

 

いや、足らねえええええ。

 

 

全く足りない。
もう、終わりが見えない。
生地が永遠に世界一周してこない。

 

ちょっ、おまっ・・・
チョ待てよ、なんてキムタクが横から口出ししそうな勢い。
ここまで来てっ、ねえっ、
お願い、いい子だから、
おとなしくこの生地に納まって…!!!

 

ぐにぐにと生地を指で押し広げ、
ムリヤリ世界征服を試みるも、ムダである。

しまいにはステップ1が水泡に帰し、
白あんを突き破っていちごが「やあ」なんて顔を出している。
もうベルリンの壁じゃなくて白あんの壁が崩壊してるーーー。

 

 

雨降って地固まる。
こうして一つになった世界、もとい、いちご大福は
この世のものとは思えない不気味な風貌をしていた。

生地はまるでボロきれ同然で巻きついており、
強引に引き伸ばされた白あんの層から
まだらにのぞく、いちごの赤。
映画『風の谷のナウシカ』に登場する
眠りから覚める前の、脈打つ巨神兵の心臓を思わせる。

 

何? この新手のクリーチャー。
それにこの大きさ。
何これ? ばくだんいわ

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※実際よりいくぶんソフトめに描いています 

 

ばくだんいわは10分間、
冷蔵庫で頭を冷やされることになった。
6つのうち、無事大福らしくなったのはわずか1つという有様。
通常サイズのいちごが
奇跡的に1個だけ混じっていたのだ。

思わぬ悲劇に私は
「もはやいちご大福ではないが、必ず食してほしい」と両親に釘をさした。
二人は瞳におびえた色を走らせながらも、静かにうなずいた。

 

10分後。
冷蔵庫を開くと、転がり出るばくだんいわ

 

私はおそるおそる、
一つのばくだんいわを手に取り、
一口、かじった。

 

 

おいしい。

 

 

なんておいしさだろう。
なんて上品な甘みだろう。
まるで、和菓子屋さんで買ってきた
上等ないちご大福である。

 

まず、白あんを選んだのは、大正解だった。
一瞬860円プラス税で
マサユキを売り払うところだったが、
きっちり払ってもおつりが返ってくるほどだ。
どこかあっさりとしながらも、まろやかな甘み。
この、白あんならではの甘みが、
間違いなくいちご大福の格を上げている。

 

さらに、
牛向けに買ったとしか思えなかった
母チョイスのいちごも、この上なくいい仕事をしている。
とても甘く、とてつもなくジューシーなのだ。
地元の農家さんは、やっぱりすごかった。
白あんと、いちご。
このコラボレーションあっての、格別なおいしさである。

 

私たちは、ちょっとしたおにぎりみたいになったいちご大福を、
おいしい、これはうまい、と
仲良くつついた。
白あんを購入した業務用スーパー同様、
見た目だけで判断してはいけないのだ。

 

 

こうして、日向家のバレンタインデーは
大団円で無事、幕を下ろした。

 

 

 

幸福な甘い時間もつかの間、
あとに残されたのは、
700グラムの白あんという現実である。

この大量の白あんを
傷まないうちに消費する使命を負った私は、
「白あん 使い道」でネット検索を始め、
日向家には当面の間
白あんを使ったお菓子が登場する日々が続くのである。