純喫茶みかづき

ほっとしたい昼。眠れない夜。常時、開店中です。

天使のおさんぽ

前回に引き続き、年末年始の印象的なエピソードについてお話しする。
初売り中の出来事である。

 

我らが雑貨店の年末年始は、クリスマスほど忙しくはない。
家族連れが増えてにぎわうのだが、
店を流れる時間はなんとなくゆるやかなのだ。

 

そんなわけで私は、店長に申し渡され
店頭で手袋一つ一つに値引きシールを貼るという
地味な作業に勤しんでいた。

 

三分の一ほど貼り終えたところで、
通路の向こうから大家族がやってきた。
小学生とおぼしき少年たちに、
後ろから彼らを見守る、おそらくは祖父母、
そのさらに後方を母親と1歳くらいの子どもが手をつないで歩いてくる。

 

お正月だなあ。
しみじみ感じながら作業に戻る。
もう数個分の値引きシールを貼ったところで
静かになった通路を再度振り返る。
すると先ほどの母子が、
少年や祖父母と大幅に引き離された形で
二人きりで歩いてくるところだった。
どうやら大家族ではなく、こちらはこちらで別のご家庭だったようである。

 

二人の歩みはとてもゆっくりで、
子どもが小さな一歩で、とこ…とこ…と近づいてくる。
傍らの母親はその足取りに合わせるかっこうだ。
子どもの顔は真剣そのもので、
踏みしめる感覚を確かめながら、
一歩一歩を丁寧に踏み出しているように見えた。
母親もまた、温かなまなざしで子どもを見守り、
その一歩一歩を尊重し、共に歩みを進めていた。

 

あまりにほほえましい光景に思わず目を奪われる。
もはや少年たちの姿は見えなくなってしまった。
ゆっくり、ゆっくりと、
小さくも確かな一歩を積み重ね、
親子はようやく私の立つそばまで近づいてきた。

私に気がつき、子どもがじっと私を見上げる。
こちらを見つめたまま、とこ…とこ…と歩き続ける。
無垢な表情のあまりの愛らしさに、
胸がきゅうううううんと鳴き出した。
胸キュンとはまさにこのことであろう。
私は思わず「かわいい~~~」と胸の苦しさに泣きそうになりながら声を上げていた。

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窒息寸前の女に、母親はちょっと眉を下げてみせ、
「自分で歩くって言って、聞かないんです」と微笑んだ。

 

そうか。
歩く喜びを、覚え始めた頃なんだ。

 

私の胸はますますキュンとした。
なんて可愛らしいんだろう。
きっと母親は「抱っこしようか」と声をかけたり
店内備えつけのベビーカーに乗せようとしたかもしれない。
しかしこの子は、自分の足で歩きたいと。

 

ゆっくりだとか、速いだとか、
この子にとっては重要なことじゃない。

 

大人たちのように歩いてみたいとあこがれ続けて、
ようやく叶えた「歩く自分」。

「歩ける自分」を確かめながら、
「できる」を喜びながら、
自分の足で歩いていくことに意味がある。

 

他の人にどんどん追い越されたって、
誰がなんと言おうと間違いなく、
自分の足で歩けるようになったのだ。
それだけで、きっとこの子の胸には
この子を支えるであろう自信と、生きる喜びが、
むくむくと生まれているに違いない。

 

おそらく母親は、
この子の意欲を尊重することの大切さを、よくわかっている。
決してせかすことなく、
先回りして済ませてしまうことなく、
この子の一歩を、大切にそばで見守っている。

 

「お母さん、えら~い!」
私も下がりきった眉で母親に向かって小さく拍手を送る。
だって、お母さん、
早くお買い物済ませたいのにね、
今は抱っこしちゃった方がらくなのにね。
見るからにきかんぼうじゃないこの子が、
強い意思で「歩きたい」って言った気持ちを、尊重してるんだもの。

 

おっと。言いながら思い直す。
「お母さんえらい」なんて、
この子がまるでいけないことをしているみたいじゃないか。

 

母親へのねぎらいはそれでいいけれど、
子どもはなんにもわからないなんてこと、決してないから。
言葉を理解しなくとも、空気を感じ取るから。
自分の意欲をとがめられたみたいに、思ってほしくない。

私は腰をかがめて、その子ににっこりと声をかけた。

 

「がんばって歩いてるのね~、いってらっしゃ~い♪」

 

 さあさ、通路もあと、はんぶん。
その調子でお母さんと・・・

 

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な、なんてこと…!!!

 

か、可愛すぎる…!!
可愛すぎるけど、
なんなら閉店までそこにいてほしいけど、これはマズい。
私はうろたえた。
お母さんのせっかくの努力が…!

 

ど、どうしよう。どうしよう。
とりあえず、バイバイすればお別れだって気持ちに切り替わるかな?

 

片手でバイバイをしてみる。だめである。

今度は両手でバイバイしてみる。これもだめである。

 

なんたる強固な意志。
この意志の強さに、母親が負けたのもわかる。
「またね~」とか「さようなら~」とか
お別れの言葉もいくつか試してみたが、
まるで効果がない。
この意志の強さは、いつぞやのササミを彷彿とさせる。

 

万策尽きた私は、
心を鬼にして、
「じゃあね~」と笑顔でバイバイした後、
もう振り返らなかった。
いかにもシール貼りに没頭して気づかないという雰囲気を、
つたない演技力で、醸し出しまくった。

 

背中に感じる視線に、胸が痛む。
ごめん。ごめんね。
いじわるじゃないからね。
無視じゃないからね、気づかないだけ――。

 

しばらく待って、そっと振り返る。
その子がようやっと背中を向けて、また、
とこ…とこ…と歩き始めたところだった。

 

優しくつながれた母親の手。
小さく、でも確かな一歩をつむぐ子どもの足。

 

今のこの子の人生、そのものみたい。

 

なんだか胸がいっぱいになり、しばらく二人の後ろ姿を見送っていた。
私も大量の手袋に向き直り、
こっちも一歩一歩だな…と、小さくも確かな一歩を積み上げ始めるのであった。