純喫茶みかづき

ほっとしたい昼。眠れない夜。常時、開店中です。

毛にまつわるエトセトラ

ナミヘイ・オンザ・ショートケーキを書きながら
ふと思い出したことがある。

 

私は一時期、ビジネスホテルに勤めていたことがある。
事情により勤務期間はほんの半年と少し、といったところだったが
あそこ以上にネタだらけの勤務先は他にない。

 

職種はフロントスタッフで、
キーの受け渡しや会計はもちろんのこと、
ありとあらゆる雑務を担当した。

 

フロントの大切な業務の一つに
客室を点検して回る『インスペクション』があった。
通称『インスペ』。
宿泊客のチェックアウト後、
次のチェックイン開始までの間に
清掃スタッフが客室の清掃を行うわけだが、
全客室の最終チェックはフロントスタッフにより行われる。

電灯はつくか、テレビは作動するか、
アメニティグッズなどの備品は揃っているか、
ベッドメイクに異常はないか。
客室が心地良く使える状態にあるかの、
いわばダブルチェックといったところだ。

 

 

このインスペで、
私は呪われているとしか思えない事態に直面する。

 

 

13時。
「インスペいってきまーす」

清掃スタッフからの申し送りを読みながら
マスターキーを片手に、客室へと出発する。
最上階から順に、下の階へ。

一部屋一部屋、
ステイ(連泊)の部屋で
「〇〇さんはいつもきれいに使ってるなあ」だの
「あらら、ゴルフボールぶちまけてある」だの
まるで平和な感想を抱きながら、
淡々と点検を進めているところに、それは突然やってくる。

 

まっさらな空気ただよう部屋に、足を踏み入れる。
ここは今朝チェックアウトになった部屋。
今日からシングルで宿泊予定だ。

 

ええと、電気はオッケー。
テレビもつくね。
エアコンも作動する。
歯ブラシに、お茶に、コップ。

さて、ベッドは……

 

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そこには、やわらかな毛が、
ふんわりと鎮座していた。
本日宿泊予定の客より先に、
新品の枕カバーをひとりじめである。

 

 

そう、私は、
なぜか必ず、インスペで毛と遭遇する。

 

 

あるときは、浴室の湯舟のへり。
あるときは、アメニティグッズが並ぶトレーの中。
来る日も来る日も、毛の置きみやげがあった。
もう置きみや毛と呼んでもいい。
毛が、意図的に仕込んでいるとしか思えない頻度で出現する。
振り返っても、毛がなかった日など一日たりともなかった。
毎日、毛が鎮座していた。

 

なに? 私のこの毛キャラ。
いったい私が何をしたっていうの?

 

私は毎日「今日こそ、今日こそは」と祈る思いでインスペに出発し、
毎度そのハートをブレイクされていたのである。
これだけ毎度確実に毛を残せるのは、ある種の才能と言っていい。

 

それを見つけるたび、
私はためらいながらも、素手で毛を拾い上げ、廃棄するのであった。
もちろん素手なので抵抗はあったが、
部屋についてほっと一息つくところで
毛に「やあ」なんて迎え入れられる悲劇は、防がねばならない。
指先でつまみ、便器か洗面所に流し、
備品のティッシュを拝借して、水滴をきれいにふき取っていた。
これぞまさに、ムダ毛処理。
私はいったいなんのスタッフなのだろうと、
やるせない気持ちになりながら、毎度隠滅を図っていたのだ。

 

あの事態は、私の身にだけ起こっていたのだろうか。
他のフロント陣も、日々経験していたことなのだろうか。
今となっては知る由もない。

ただ確かなのは、私のムダ毛処理班としての地道な活動により
少なくとも100名の宿泊客が
部屋を毛にのっとられる悲劇を免れたということである。

 

 

誰かの幸せは、誰かの仕事によって成り立っている。
お皿を洗うことだって、お掃除だって、
水道管の修理だって、ピザの配達だって、
玄関から新聞をとってくることだって、なんだって。


胸を張ろう。あなたも、私も。